<邪馬台国はどこか、邪馬台国はその後どうなったかに対する一つの明快な解答>
320年代後半ごろに、伯済国(パクチェ、百済)の辰王は次男(崇神=旨=首露=脱解 の父)を弁韓・辰韓・倭国を征服してその王になることを命じた。そこで崇神(旨=首露=脱解)の父は、伯済国の水軍を率い、弁韓・辰韓を征服した後、北部九州に渡来し、抵抗した倭国=邪馬台国を征服し、倭国王となった。
 私は、北部九州の甕棺型式の状況からみて、彼は中国に対して邪馬台国制服を隠すために、旧邪馬台連合王国を特別自治区として旧邪馬台国王に支配させ、旧邪馬台国王とその後継者たちを、死後吉野ケ里遺跡の北墳丘墓に埋葬させたと考える。
 新しい倭国王=邪馬台国王〔崇神(旨=首露・脱解)の父〕は、都を岡水門おかのみなと(今の福岡県遠賀郡芦屋町の遠賀川河口付近)に置いたが、後に安芸国(今の広島県)の多祁理宮たけりのみや(埃宮えのみや)に移り、330年代には吉備国の高島宮に遷宮し、近畿・中部地方まで征服した。この時期に、彼の勢力が第2次高地性環濠集落を造ったが、第1次に比べて、その分布が、西は中部九州から東は中部地方までに広がっている。
 また、伯済国の辰王は、330年代初め頃、崇神(旨=首露・脱解)を弁韓・辰韓の王とし、崇神(旨=首露・脱解)の父には倭国の完全征服に専念させたと考えられる。
 『新訂倭の五王の秘密』で、『三国遺事』巻1、延鳥郎・細鳥女条の記事を根拠に説明したように、337年(丁酉年)に、崇神(旨=首露・脱解)の父が高島宮で死亡したので、弁韓・辰韓2国の王になっていた崇神(旨=首露・脱解)が倭国に渡来し、倭国王にもなった。この時、伯済国の辰王は崇神(旨=首露・脱解)の従兄の余句(肖古王)の時代になっていたので、崇神(旨=首露・脱解)は、余句の命令で、弁韓・辰韓・倭国の3国の王になったとみられる。
 伯済王の辰王の余句が342年(壬寅年)を百済・倭国両国の建国年としたのは、BC19年(壬寅年)に反高句麗の伯済国の初代辰王が即位しており、342年(壬寅年)はその干支6運(360年)後に当るためと考えられる。
 以上のようなことから、342年(壬寅年)に、伯済国の辰王余句が、国名を百済と改め、初代百済王になり、崇神(旨=首露・脱解)が加羅・新羅・倭国を支配する初代前期百済系倭国王になったと推定される。
付記 石渡信一郎の説 倭国王(倭の五王の秘密)
倭国王生年在位死亡年死亡年齢王都陵墓
崇神(旨=首露・脱解)312342~37937968纏向箸墓
垂仁(高)349
40961纏向渋谷向山
讃(イニシキイリヒコ)366
43772纏向行燈山
珍(ワカキニイリヒコ)371
44272佐紀五社神ごさし
済(ホムダノマワカ)410
46152志紀仲ツ山
興(オホシ)438
47740志紀石津丘
応神(昆支・武)440491~50650667志紀誉田山
継体(男弟)450
53182
大仙
欽明(ワカタケル)495531~57157177志紀、大和国軽大塚山古墳→見瀬丸山
敏達538572~58558548
牧野(ぼくや)古墳
聖徳(用明・馬子)550586~62262273
石舞台古墳
善徳(蝦夷)623~643
真徳〈入鹿)644~645