日本書紀の讖緯説が問いかける二つの問題
■日本は百済の植民地だったのか
精神分析学者の岸田秀は最近の『官僚病の起源』(新書館)の「日本は百済の植民地だった」というエッセーのなかで、まさにそのタイトルのように、古代日本が百済の植民地だったのではないかと提言している。しかし、本文を読めばわかるように史学的な論証はない。その意味で素人の珍説にすぎない。だが、私はこの提言は考慮すべきではないかという印象を持った。私が理解したところを簡単に要約すると、彼は、記述された歴史は精神病患者と同じように扱えるという前提に立ち、書かれた内容はまさに精神的に抑圧したい内容と対照的に描かれる、としている。その視点から日本書紀を眺めたとき、そこに抑圧・隠蔽された内容を、彼は「日本は百済の植民地だった」と見た。
実は私も、口頭での雑談やそれに類する場では、冗談として受け取られることをむしろ求めつつ、同種の発言をしたことがある。私の場合は、彼のような精神分析の立場ではなく、より純粋に史学の立場からだが、このテーマを正面から論じることは避けてきた。常識に対するというより、史学対する逸脱にも思えたからである。この態度を決めかねる状態は、気が付けばもうかれこれ十年になる。ときおり悪夢のようにこのテーマを考えては行き詰まる。行き詰まる点は、それが一見、常識や史学を逸脱した結論にあるのではなく、方法論にある。数学的な言い方をすれば、証明のために与えられた命題群による任意の構成はどれも証明の必要条件にならない。つまり、このテーマはどうやっても当初から証明できそうにはない。
もちろん、日本古代史といえる知的分野の専門家や一般の研究家には、方法論にあまり固執しない人もいる。悪口のような言い方になるが、日本古代史の分野は、不適切な方法論でめいめい勝手なことを勝手に行い、その学派内の政治力で「定説」がでっちあげられている。あるいは、こうも言うべきかもしれない。証明を構成できない命題群と、その領域を超越した別の証明系の導入としての考古学で欺瞞のペアを形成している、と。これは私にはこれはおよそ学問というものの体系をまったく無視しているとしか思えない。このために、たとえば、高松塚古墳の被葬者については、誰も史的な考察を放棄している。なんとなれば、墓碑がなく考古学的な決め手に欠くというわけだ。しかし、それは裁判官が犯行現場を目撃しろというようなもので、学問の方法論上の倒錯だろう。史学は、その独自の方法論の体系に沿って、妥当な推論が提示されればそれで十分なはずだ。だが、妥当を超えてまで推論をする意義はあるだろうか。
前書きが長くなったが、日本国家成立についての、私の推論のノートの一部をこの機会にまとめてみる。残念ながら、先のテーマを十分に証明できるものではなく、疑問提示に留まる。
■宇宙のサイクルは千三百二十年
日本書紀の宇宙観が讖緯説によってできていることについては、諸学説間に異論はない。讖緯説の説明は、簡素な事典では説明が足りないかもしれないが、説明があっても、その時間観・歴史観は、現代人のようなベクトル的な時間・歴史ではなく、表象と顕現の差異を時間・歴史として構造化したものなので、現代人には理解しづらい。だが、理解しづらいからといって避けるわけにもいかない。
日本書紀の讖緯説の影響のなかでも、特にその起源の設定は讖緯暦運説に依存している。これに基づいて、日本の神話的な起源の時刻が算出されている。
であれば、逆に算出基準となった時刻が存在することがわかる。そして、この算出基準となった時刻こそが、この宇宙観に実質的に最も意味をもった事実を反映していることも明かだろう。つまり、それが日本の実質的な起源の時刻なのだ。
ではそれは、いつなのか?
まず、その算出の方法論だが、一般的には、このように理解されている。つまり、干支は六十年で一巡し、このサイクルを一元とする。また、二十一元で一蔀となり、世界が改まる、と。このため、一蔀を単純計算で千二百六十年とする。
井上光貞の日本歴史の概説書などを一瞥すると、信じがたいことだが、これが日本の古代史学の定説になっているようだ。坂本太郎(「古事記の研究」)に到ってはそれゆえ、起源に千二百六十年を加算し、日本書紀の算出基準年を推古九年として、なにも特記すべきできごとのないこの年に対して、それゆえなにか重要な年であるかような倒錯の議論まで発展させている。この定説化の根は明治時代の那珂通世の論考なのだが、これは再考するまでもなく、先のような単純計算に依存しているにすぎない。これらは実は明白な誤りなのである。
讖緯暦運説の原点は『六芸論』や『駁五経異義』を著したとされる後漢代の経学の学者鄭玄(一二七~二〇〇)の説であるが、その算出を説明する原典はすでに存在しない。幸い、日本の三善清行の『革命勘文』(九〇一年醍醐天皇に献納)にはその引用と思われる文が残っている。
「鄭玄曰く、天道は遠からず、三五にして変ず。六甲を一元と為す。四六、二六交相乗ず。七元に三変あり。三七相乗じ、二十一元を一蔀と為す。合わせて千三百二十年」
これを読めば誰でもわかるように、那珂などは「二十一元を一蔀と為す」だけに注目しているので、鄭玄が最終的に千三百二十とする算出過程を理解しているわけではない。しいて言えば、那珂などの近代の史学者はわざと鄭玄の説を誤読している。
鄭玄の算出については、那珂などのように、明治という近代国家の精神風土に毒されていない近世以前では、取り分け問題として指摘されることもなかった。代わりに、どちらかといえばこの算術自体が秘儀のようにみなされていたふしもある。いずれにせよ、算出方法の内部過程の正しさは広く信任され、算出結果も当たり前のこととして信頼されていた。
そこで、このような秘儀の内側に千三百二十年という算出結果の真偽を探ろうとする試みにも意味はあるだろう。だが、さしあたって、この算出方法の探求自体は必要ない。当面重要なことは、千三百二十年という算出結果が正しいかどうかだけだ。
結論を言えば千三百二十年で正しい。なぜなら、鄭玄自身が宇宙のサイクルを間違いなく千三百二十年としていたことは、中国史の知識があれば、簡単に理解できることからだ。
■百済を後継することが「天命」であった
後漢の鄭玄は、悪徳の時代の覇者である殷の紂王を滅ぼした周の武王の父文王が、紀元前千百三十七年、甲子年、天命を受けた年に最初の宇宙のサイクルが始まったと見なした。また、このサイクルが終わり、新しい宇宙のサイクルが始まる年を西暦百八十四年、甲子年とした。なお、ここで関連して注意してほしいことがある。讖緯暦運説には、このように紂王と武王の関係のシンボリズムが隠れていることだ。
鄭玄の説を基に、一つの宇宙が終焉し、西暦百八十四年に新しい宇宙が始まるという信念を当時の人々がどれほど強固に抱いていたかについては、日本でも有名な三国志演義などの黄巾の乱の物語からでも容易に理解できる。つまり、この時代の人々にとって、鄭玄による宇宙の時間観はまったく自明のことであった。
さて、以上のような中国史の初歩的な事実から、鄭玄が実際に示したサイクルは何年間であったかがわかる。千三百二十年である。つまり、三善清行が示すとおり。古代の東アジアを通貫して、このサイクルの算出結果には間違いがないことがわかる。
そこで、実質の日本国家の起源年は、日本書紀の神話的な起源年に千三百二十年を加算さえすれば、誰にでもわかることになる。この答えは、西暦六六一年である。
この年は天命が入れ替わる「革命」を意味する辛酉年にもあたる。また、国家制度が入れ替わる「革令」は甲子年は辛酉年の三年後、西暦六六四年である。
日本書紀に埋め込まれている宇宙の時間は、西暦六六一年を革命とし、六六四年を革令としているのだ。
では、なぜ、この年が日本の起源に選ばれたのか。また、その年を選ぶことで、革命と革令は、この時代になにを意味しているのだろうか?
歴史年表を持ち出すまでもなく、この年号は中学生でも暗唱しているだろう。西暦六六一年は百済が滅亡した翌年であり、六六四年は白村江戦が敗退した翌年である。つまり、百済の滅亡後の政体が革命であり、白村江戦の敗退後の国家制度制定が革令である。天命の観点からいえば、百済を後継することが「天命」であり、この推進者は天命を開別する者である。
以上の考察にはいささかの推論も含まれていない。ただの歴史的な事実を従来にない方法で配列し直したただけだ。だが、この配列が問いかける問題を今までだれか読み解いたことがあったのだろうか?
というのは、これは端的に言って、日本という国は百済の後継国であるという宣言以外のなにものでもない。他にどのような妥当な解釈も許されそうにない。たとえば、百済の滅亡に対して、「他国の出来事ではあるが百済は重要な同盟国なので、その滅亡は新しい時代の終焉と当時の日本人が考えた」などというノンキな解釈は成り立たない。天命が入れ替わる「革命」という意味を十分理解すれば、そんな迂遠な解釈が成立するわけがないからだ。
■誰が目眩ましを考案したのか
また、日本書紀が示す実質の起源年に関連して、別の側面からもう一つの疑問が浮かび上がってくる。
では、なぜ、日本書紀は蛇足ともいえる前史を千三百二十年分も創作したのだろうか?
ここで私は倒錯した疑問を呈しているとは思わない。日本書紀における日本の起源はあくまで六六一年であり、その前史は後代の者が、別の意図で付随したものにすぎないことも明白だからだ。古代東アジア史の観点から見れば、日本書紀の推古帝時代以前の記述に史実の断片はあるとしても、また、後世日本国内においてこの記述が法源として機能するとしても、全体としては恣意的な虚構にすぎない。
日本という国の実質的な起源年である六六一年は東アジアの歴史を考えれば誰でもわかることだった。だが、日本書紀だけしか視野にない者には、この膨大な疑似歴史の目眩ましが効く。表面的には日本書紀はあたかも革命などないかのような散文の集積であり、また、革命の対象すらぼかしている。当然ながら、この史書の創作者グループはこれをぼかす必要があった。
最後に、関連する問題を、今後解くべき二つの明確な疑問としてまとめておこう。
一つめは、日本が百済の後継国ということはどういうことなのか?
二つめは、その目眩ましの前史を補足した者の意図はなにか?
この二つの疑問について、私は、不十分だが解答をすでに考えている。だが、この解答は、やはり、あえて記すまでもないようにも思える。すでに述べたように、本質的に証明にはなりえないし、また、岸田の言う「日本は百済の植民地だった」のように異様なものになる。
また、この二つの疑問さえ明確になれば、誰もがなんらかの形で解答に到達できるだろう。
もちろん、この疑問をその形態のまま共有する必要はない。異様な結論を避けたいという気持ちを持つ人もいる。それはそれでいい。もっと簡単な疑問に移し変えてもいい。
すでにこの讖緯説についての考察だけからでも、この変革の主人公ともいえる天智王の漢風諡号や、和風諡号「天命開別天皇」の意味は容易に推察できるだろう。そこで満足しても、以前よりは、日本書紀と日本という国家起源の理解にはなるだろう。