できごと:

 特に変わったこともございません。今月は机を叩いたことが一回、鉛筆折りが一回でしょうか。

論評:

「君はできるんだ」

「勉強の先にはすばらしい未来が待っている」

この二つが言えない。

数式や知識など具体的でないことを苦手とする人に「勉強」を教える時、教えれば教えるほど口では出しませんが「だめだなあ」というメッセージを送り込んでいる。こういうパターンが良くあるのです。

 勉強の先のすばらしい未来についても、現実は少しだけ有利なせせこましい座席の取り合い。という意味合いが強く、すばらしい未来が待っているから勉強しなさいと言い切れません。

 成長期ではない成熟社会の勉強の仕方について考えたいと思います。

読み、書き、そろばん(計算能力)つまり基礎的な学力は誰にとっても必要で意味のあることです。身につけれるならできるだけ身につけた方がいい。その先の勉強はその人が世の中をどうとらえ、自分をどうとらえ、自分の生き方をどう選ぶかに関わってきます。今述べたような三点がしっかり決まってくれば勉強の道筋・方針も立ちやすいと思います。この道筋は十人十色ですし生徒さんはそれを決める途上にいますから決めつけるのは難しい。きわめて特徴的な個性を持った人は早く離脱して自分の道を進むという選択肢ありですね。大多数は学校生活をおくりながら勉強しながら、この長いモラトリアム(決断を後回しにできる時期)の間に自分の生き方と自分に必要な勉強を身につけ巣から追い落とされる日に備えるわけですね。つまり勉強に不向きでもジャブ(軽いボクシング)を繰り返し自分の適性不適性・方向性を探っていくことになります。そういった中に塾の勉強もあります。まあ万能細胞が将来、肝臓になるのか腎臓になるのかまだ決めあぐねている時の刺激のようなものですね。だから「君はできるんだ」が言えないとすれば「可能性をさぐっているんだCHALLENGE!」と激励したらいいんでしょうか?「勉強の先にすばらしい未来が」ではなく「君はどんな社会がすばらしい未来だと思う?」と聞いてみればいいのでしょうか?

エピソード: 

 新湊の寿司屋の次男坊がニューヨークで流行っている寿司屋をやっていて上客を加賀温泉に連れて来た時の事、「日本では裸で風呂に入るんですよ」と説明したところ、その外人フリチンに羽織姿で風呂から出てきて廊下を歩き、すれ違った仲居さんが慌てたとのこと。自分にとっての常識は全く何も知らない人には常識ではないということを改めて強く感じさせられるエピソードでした。そのアメリカでも3本の指に入るという食品スーパーの幹部という人の名誉のために言っておきますとその人はアフリカなどよく旅行し様々な風習を見聞し郷に入れば郷に従う精神の持ち主だとか。

 塾長の自由研究:

A君は(0.8)を0.8+0.8と何度言っても計算しました。比の値を求める問題で前の数字÷後ろの数字ですが1:4は4と答え、15:3は5と答えます。共通点は一番楽な計算をして答えのようなものを出すのです。それが彼の勉強の場での「しのぎ」の術なのです。また、よく試験問題に「連立方程式を立てよ、しかしその連立方程式は解かなくてよい」という問題がよくあります。「国民」の学力の照準を誰に定めて教育が設計されているのか甚だ疑問に当方は思うのです。当方のやり方によれば学力がさだかでなければさだかでないほどこの連立方程式は解く必要があるのです。それどころか当方は答えの確かめまでやります。