朴炳植「日本語のルーツは古代朝鮮語だった」より


古代日本成立のスケッチ

 

古代中国人が持っていた日本の位置のイメージ
  古代中国人の日本位置のイメージ
魏志倭人伝を正しく読むための古代中国人が持っていた日本の位置のイメージ(現在の日本を90度右に回転させる)明の成祖時代、中国に派遣された朝鮮使、金士衡と李茂が作成したもので龍谷大学に所蔵されているものである。
 

BC250年ごろ 韓国慶尚道地方の伽耶族とよばれる人々が弥生文化をもって、縄文人の住む日本列島に渡り植民・開拓。

彼らは日本海沿岸(九州北部、山陰から北陸にかけて)各地に拠点をつくったが、その主力は九州にあった。

九州に地歩を固めた伽耶族の一派(ウガヤ)はやがて出雲地方を通じて次第に近畿地方へとその主力を移していき、大和地方にその勢力を張るようになる。一方、九州では伽耶族のもう一派(アラカヤ)が(ウガヤ)の後を襲うかたちで勢力を張るようになる。
 大和の国は後に「魏志倭人伝」に邪馬台(ヤマト)国として記されるようになり、九州の(アラカヤ)の国は狗奴(クヌ)国と記されるようになる。
これが、AD180年ごろの日本の構図である。追加の日本国のイメージ 紀元0年ごろには日本の主要な海岸部は植民・開拓されていた。大小の分国、部族国家。

 

AD180年前後に倭の動乱


半島では新羅の王族が朴氏(ウガヤ)から昔氏(アラカヤ)に取って代わり、日本では奈良の地で(ウガヤ太陽族)朴氏ひみこが共立(大和・朴氏、出雲・昔氏、吉備・金氏)される(173年)。一応の動乱収拾。

 

AD362年仲哀天皇の死で第一次大和政権(ウガヤ太陽族)終了


AD356年半島では新羅の王族が昔氏(ウガヤ、太陽信仰族)から金氏(アラカヤ熊信仰族)に取って代わる。日本では362年仲哀天皇の死で第一次大和政権(ウガヤ太陽信仰族)終了。ここからは奇怪な記事。日本書紀「この時にあたり、昼の暗きこと夜の如くして、すでに多くの日を経ぬ。時の人いわく『常夜(とこやみ)といふなり…』」朴炳植は「この記事は、世の中から太陽の神がなくなり、熊(クマ=黒色)の世に変わったということを示唆している。」と書いている。

 奇怪な記事その2、古事記中巻神功記「武内宿禰(たけのうちすくね)が誉田別皇子(ほんだわけおうじ)の汚れをはらい清めようとして、淡海若狭の国を経て高志の角鹿(つぬが)に仮宮を建てていたところ、武内宿禰の夢にイザサワケの大神があらわれて『自分の名を皇子の名に変えたい』と言った。武内宿禰が『その通りにします』と答えると、大神は『明日の朝、浜辺に出てきなさい。すれば名を変えた代価を与えよう』と言った」とある。
 朴炳植が書くには「わかりやすくこれを解説すると、神功皇后の皇子ホムダワケは、このときその名をイザサワケと変え、ホムダワケの名を得た大神(イザサワケ)が応神天皇(ホムダワケスメラミコト)となったのだから、このときから熊の神を奉ずる王朝がはじまったのである。
 日本書紀の一書もこの奇妙な史実に触れて、「しからば大神の元の名はホムダワケノカミ、太子の元の名をイザサワケノミコトということになるのだが、見ゆるところもなくいまだ詳らかならず」と書き残している。日本書紀の校注者たちは、あいまいな表現を用いながらも、消すことのできぬ重大な記録を後世に伝えようとしたものであろう。」と朴炳植は書いている。
 ここからは当方のたぶんこうだったのではないか劇場
 武内宿禰と神功皇后はクマソ(九州南部のアラカヤ熊信仰族)を尖峰として百済の力を借りて九州や瀬戸内海等のウガヤ太陽信仰族をつぎつぎと打ち破り大和の地に第二次大和朝廷(アラカヤ熊族、金氏)を立てた。たぶん名前を変えた神は百済の王族でないかというのが当方のたぶんこうだったのではないか劇場。そう考えないと狗奴国(クマソ)の馬の骨が第二次大和王朝を開いたことになる。
 

 

つぎに日本史をゆるがす大きな事件672年 壬申の乱
大海人皇子の出自と背後勢力
① 天武は斉明の連れ子(漢皇子)である。
② 天智よりも少なくとも三つ年上である。
母 宝皇女(たからのひめみこ)
  処女時代の名   宝皇女
  父の名      茅渟王(ちぬのおほきみ)
  母の名      吉備姫王(きびつひめのおきみ)
  生まれた年    AD593年
  死亡年齢     68歳(661年)
  初婚の相手    高向王(たかむくのおほきみ)(用明天皇の孫)
  初婚時の年齢   ?
  初婚で生んだ子  漢皇子(あやのみこ)(623年、本人30歳の時)
  再婚の相手    舒明天皇
  再婚時の年齢   36~37歳(630年=舒明2年正月)
  再婚で生んだ子  葛城皇子(かづらぎのみこ)(後の天智天皇、626年、本人33歳の時)他1~2名。
父 高向王(アラカヤ系、太陽信仰族)

以下、朴炳植「日本原記」より抜粋
天武の父親を追う
 天武が天智より年上だという結論は、そのままこの二人が実の兄弟か否かの疑問に結びつく。
この問題に関する小林恵子(やすこ)氏の解釈と、一歩進んで、もし天武が天智と実の兄弟でないとしたら、天武の血筋は一体どこからきているのかという謎に関する鋭い分析は、真に興味津々たるものがある。以下、小林氏の指摘する事柄を一つづつ検討しながら私の意見を述べさせていただきたい。
 小林氏はまず「天武は正統の皇位者ではないのではないか?」という疑問を提示して、そのように思われる理由をいろいろ挙げている。その中から主要なものを拾ってみると。
① 『続日本紀』によれば桓武天皇以後、山稜の奉幣は天智から、すぐに光仁(こうじん)に連なり、天武朝の諸天皇への奉幣の記事は、平安以後全く見当たらない。さらに現在でも、天皇家の菩提寺泉湧寺において、天智から、すぐに光仁、桓武とつづき、天武系諸天皇は除外されている。つまり、天武系の諸天皇は無縁仏ということになる。
② 『書紀』には、天智三年、大海人が四十三歳の時(筆者注:四十一歳の誤記?)初めて皇弟として出てくるが、どうしてなのか?
③ 天武は漢の高祖のような下層の遊民から身を起こして王朝の始祖になったものに自らを擬し、後継者もそれを認めているが、天武が天智の実の兄弟であるならば、貴種中の貴種であるはずなのに、これはどうした理由からなのか?


背後勢力(第一期大和朝廷の王族、太陽信仰族)
筑紫、出雲、吉備、美濃、尾張、東北(エミシ)、越など
追加の説明 半島では660年百済は新羅に滅ぼされた。以後日本は半島とのきずなが断ち切られた年(日本の独立)。斉明天皇の半島出兵遅らせ作戦が663年の白村江の新羅勝利に間接的に貢献した。壬申の乱へとつながっていく。

 

壬申の乱に勝利した天武朝(昔氏)のもつ意味
362年の仲哀天皇の死以来、九州の熊信仰族によって奪われた大和朝廷の王権を300年ぶりに復古したことである。
追加の説明 復古した太陽信仰族系の天武系王朝は長く続かず、770年熊信仰系というかアラカヤ金氏系の光仁天皇等が現代まで続くことになる。

 

筆者結び この朴炳植氏の半島人による日本開拓史、日本古代国家成立史は確かに抵抗を感じますが、たぶんこれが真実に近いのだろうと思う。日本列島に植民した部族国家抗争。645年大化の改新からの中央集権化の歩みまでは、国といっても部族の争いぐらいのイメージで半島や列島での抗争をイメージしたらいいのではないでしょうか。ちなみに奈良時代の日本の人口は一説によると600万人。
太陽信仰族、熊信仰族なんのことか分からないと思います。また宗旨替えもあり、戦う相手がはっきり太陽VS熊と分けられるものでもありません、時代が下るにつれ、百済VS新羅ととらえた方が分かり易いと思います。要は伝統という立場に立つか、現実の力の上に立つか様々な動きが出てくるのでしょう。現政権奪取が主要眼目で、そこにどこぞの生まれという血筋がからんできている。
当方の本当のねらいは、日本農民の歴史をあらわにすることですが、年貢を集める支配層と年貢を差し出す農民層は暮らしぶり、考え方、育ち方がまるで違います。誰が支配者になろうが農民は年貢を納めに行く。農民にはそこから上の国家の構図はわかりません。年貢を納めに行くまでの日々の暮らしが農民の2000年の歴史です。