明治天皇とは何者か?

 

昭和4年2月に、坂本竜馬の門下生で、第3代宮内大臣であった田中光顕は次のように語った。

「実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。明治天皇は孝明天皇の皇子で御名を睦仁親王と申し上げ、孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなっているが、実は(その睦仁親王は暗殺され、これにすりかわった)明治天皇は、後醍醐天皇の御王孫の光良(みつなが)親王の御王孫で、毛利家のご先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領有し、代々長州の萩において、この御王孫を御守護申し上げて来た。これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古御維新を志した勤王の運動である。」

 

これは愛知県豊川市に住む三浦芳堅の著作「徹底的に日本歴史の誤謬を糺す」(国会図書館蔵書)のなかで、自分こそは南朝天皇家の正当末裔であると田中光顕に対して三浦が主張したことについて、田中が語った一節を、鹿島昇氏が「裏切られた三人の天皇」の著作で紹介(一部略)しているものである。

 三浦の主張を「裏切られた三人の天皇」から更に紹介(一部略)しよう。

 

 極秘伝のわが『三浦皇統家』の記録に「神皇正統第99代松良天皇が木こりに扮装して、三州萩(現在の愛知県宝飯郡音羽町大字萩)に落ち延びさせられて、第四皇子の光良親王には、大江氏がこの『萩』から連れて長州に落ち、落ち着いた先を『三州萩』の在所を忘れないために、『萩』(現在の萩市)と名付け、初めは三年に一度は連絡を取っていた」と記録されている。

 

 まさに田中光顕の証言と符合するではないか。

 

また、明治維新なるや、南朝系の後醍醐天皇の皇子の宗良親王(光良親王の先祖)を井伊谷宮に明治天皇が祀り官幣中社にしたが、もし孝明天皇(北朝系)の皇子であれば、不自然な行為である。

 

宗良親王は四緑木星壬子年で明治天皇も四緑木星壬子年だったから、自身が南朝の征東将軍宗良親王の御再現である自覚が井伊谷宮を祀られたのではないか、と三浦は指摘した。

 

ちなみに何故長州の萩へ落ち延びたのか。この萩の地は、もともと松下邑(まつもとむら)という名の一種の被差別部落であり、契丹が渤海を滅ぼした時(926年)契丹の鉢室葦が渤海難民を率いて鉢屋衆として山陰地方にも渡来し、居付山窩や万歳師や忍者などになり、この松下邑にも隠れ棲んでいた。

 

その人的ネットワークが三州萩まで延びており、長州松下邑が落ち着く先の候補地となったと思われる。また、被差別部落であれば北朝系の追っ手も来ないだろうという思惑も働いたのであろう。松下村塾の名前も、この村名から来ている。

 

その後、光良親王の子孫は、中世に京都嵯峨善入寺(現在の宝筐院)の領地であった現在の山口県田布施町大字麻郷(おごう)へ居を移し、世をはばかるために姓を大室と名乗り、明治維新到来まで連綿と続き過ごしたのであった。

 

さて、光良親王の子孫は、どのような方法で「明治天皇」となったのだろうか?

 

江戸末期、家茂将軍が毒殺されたとき、「彼が一橋によって殺された」という噂がかなり流布されていた。  

一橋とは、もちろん一橋慶喜のことである。

 

「明治維新の生贄」(鹿島昇・宮崎鉄雄・松重正共著)によると、水戸光圀の「大日本史」に影響された慶喜は、水戸藩と長州藩が結んだ「成破の約」を遵守して南朝再興のためのひそかな献身をしていた。

 

慶応2年(1866年)7月20日 長州征伐を主張する徳川将軍家茂が朝廷差向けと称する医師によって大阪城内で毒殺された。城内外に手引きするものがいなくてはできないことであり、この黒幕が慶喜と目されているのである。

 

このとき長州の麻郷には、孝明天皇の皇子睦仁と同年の16歳になる大室寅之祐なる光良親王の子孫がいた。

周防国熊毛郡束荷村で生まれた伊藤博文(幼名は林利助)は、長じて奇兵隊のひとつである力士隊総督となり、大室家と家が近いこともあり、大室家の近くにある石城山の第二奇兵隊の練兵場で、毎日のように大室寅之祐と400人近い兵とで銃陣訓練等をしていた。

 

足利義満の血脈である孝明天皇を排除し、後醍醐天皇系の南朝の末裔を擁立して王政復古を図ろうというプランを最初に考え出したのは、慶喜や彼の父である水戸藩主の斉昭、藤田東湖等の大日本史編纂グループと、「成破の約」を結んだ長州藩の吉田松陰主宰の松下村塾のグループであった。

 

しかし、南朝の末裔を自称する熊沢天皇を推す水戸勤王党が、「天狗党の乱」で、幕政の中心に座った「二心殿」の慶喜に裏切られ処刑されたため、プランの実現は同じく南朝の末裔の大室寅之祐を擁した長州藩の松下村塾に回ってきた。

 

慶喜は家茂に代わって将軍になることにより、北朝の孝明天皇を退位させ、南朝光良親王の末裔と称する大室寅之祐を睦仁親王とすり替える奇策を考え出した。

 

しかし、薩摩に武器を提供するイギリス公使ハリーパークスが、幕府側に武器を提供するフランスを嫌って、「開国を認める天皇の下で薩長の政府を作れ」と言い出したので、薩長同盟の内容が変わり、薩長は慶喜の協力なしに大室寅之祐を明治天皇にしようと考え出した。慶喜の協力がなければ孝明天皇とその皇子の睦仁は「暗殺」するしかなかった。

 

渡辺平左衛門は自ら源西古といい本名は丹後守章綱である。平左衛門は大阪城定番であったが慶喜の命を受けて孝明天皇暗殺の犯人を調べ、それが伊藤博文と岩倉具視であることを知った。

その息子が「明治維新の生贄」の著者の一人である宮崎鉄雄である。宮崎氏は平左衛門から孝明天皇暗殺の次第を教えられ、この事実を天下に明らかにするよう遺命を受けたという。

 

伊藤博文は天保12年(1841年)生まれで殺し屋の忍者であった。幼名は利助だが、大物を斬殺する度に名前を変え、利介、利輔、俊輔と変えていき、その延長上に孝明天皇暗殺があったのである。

17歳頃には非凡な人斬り名人と認められ、18歳の時には国学者塙保己一の息子である塙次郎(忠宝)を、仲間二人で暗殺している。

 

岩倉具視は文政8年(1825年)生まれ。権中納言堀河康親の次男。14歳で正三位岩倉具慶の養子となり翌年から朝廷に出仕。30歳で歌道を通じて鷹司政道に近づき朝廷首脳に発言権を持つようになった。孝明天皇とはホモセクシャルの関係であった。

  

宮崎氏の調査によると、京都市中京区の四条大橋のたもとの石垣の中ほどに鉄門があって、鉄門のなかに地下道があり、それを進むと広大な地下の屋敷があった。そこが朝廷の隠れ屋敷で、10年の間、孝明天皇と岩倉具視が密会用に使用した場所であった。

しかし孝明天皇が女性に興味を抱くようになると、岩倉との関係を絶とうとするようになった。可愛さ余って憎さ百倍、天皇に対する殺意を抱くようになったのかも知れない。

 

慶応2年(1866年)12月25日。孝明天皇暗殺の日がやって来た。

長州征伐と実行不可能な攘夷を主張した孝明天皇の暗殺場所は、岩倉具視の義妹である堀河紀子の妾宅で、現在の京都市下京区三ノ宮通り上の口上ル岩滝町で「京都・奈良・そして大阪 古代探訪の旅(4)」で写真付きで詳述している。岩倉の企画で盛り土をして東高瀬川の周り三方を山で囲み、外部からの邪魔者を防ぐ天然の要害を完成させていた。

  

暗殺実行犯は、その後、初代内閣総理大臣になった伊藤博文(当時の名は俊輔)である。孝明天皇は「はばかり」で伊藤に暗殺された。堀河邸の「はばかり」は長さ1m幅50cmほどで前方には両手でつかまる棒があり、遺体をひきずり落とす時に皮膚を傷めないように穴のふちは獣毛で覆われていた。「はばかり」は中二階で、排出を大きな箱で受けて用が済んだら洗浄する仕組みであったが、その係りを岩倉が前もって買収し、代わりに小柄な伊藤がそこで待っていた。

 

暗殺のプロである伊藤は、床下から秘蔵の忍者刀で天皇の尻の中央を突き上げて肋骨の真下の左から心臓へと刀を突き刺し、刀の先端を回して臓器をえぐり、刀を抜いた。

床上の忍者が天皇を抱えて穴から下に降し、用意した箱に寝かして、血を完全に出して洗い流し、再び穴から上部へ押し上げ、着衣させ御座所へ運んだ。

 

伊藤は便所の手水鉢で天皇の血が付いた自分の手と刀を洗い、共犯の忍者部隊も敷地を流れる東高瀬川で体を洗った。

     

   現在の東高瀬川

 

遺体は長崎帰りの外科医によって傷口を縫い合わされ、天皇の皇子の睦仁には、食中毒ということにして見せられたので、睦仁も納得した。

 

そして次は、この睦仁親王が暗殺されるのである。

  

睦仁親王は幼名を祐宮(さちのみや)といい、1852年(嘉永5年9月22日)の生まれで、生母は中山忠能の娘の中山慶子。1860年に親王宣下を受け、睦仁の諱名を賜った。

父の孝明天皇の死去により、翌慶応3年(1867年)1月9日践祚。

 

践祚した明治天皇(睦仁)も、孝明天皇と同じく頑迷な佐幕攘夷主義者であったため、薩長にとっての暗殺対象となった。

 

1980年代から90年代にかけて、「太郎・次郎の反省ザル」という猿廻しがテレビで流行ったことがあったが、この村崎太郎氏の出身地である山口県光市の光井村は、光市と合併する前は、大室寅之祐のいた麻郷村と同じく熊毛郡であった。この地域は伝統的に猿飼いを職業とする長州忍者たちが住む被差別部落であり、この猿廻しを利用して睦仁を暗殺するアイディアを伊藤と岩倉が実行した。

 

「中山忠能日記」には、「いろいろ怪事あり。日々猿出頭して苦しめたてまつり、お側女中にも毛つき候こと度々これあり。大いに恐れ逃れ去り・・・・はなはだ奇怪不審にて候」とある。

 

また「(1867年)7月8日、新帝(睦仁)は学問所で遊戯をして手に負傷した」とあり、このあと宮中に侍医が呼ばれたこと、中山慶子が浪人者に、子供ほどの大きさの仏像を包んで中山家に届けさせたこと、中山慶子が宿下がりをしたことなどの記録がつづく。

 

侍医は岩倉に買収された伊良子光順で、猿にひっかかれ負傷した睦仁の手に毒入りの膏薬を貼り、睦仁を毒殺した。長州忍者は毒殺の技術を持っていた。仏像は睦仁の遺体であろう。

 

7月19日の「中山日記」には「奇兵隊の天皇」とあるので、睦仁暗殺後、この日までに大室寅之祐が明治天皇として、すり替わっていたと思われる。

 

のちに睦仁を知る者から、「明治天皇は睦仁親王ではない」という噂が流れて、伊藤博文は「同一人物だと言って押し通す他はないじゃないか」と言い張ったという。

 

では伊藤が、同一人物だと押し通そうとした大室寅之祐と睦仁親王の特徴を比較してみよう。

 

睦仁は、幼少時は虚弱児であり、女のように育てられ、禁門の変で大砲の音にびっくりして気絶したほどの軟弱ぶりであったが、鳥羽・伏見の戦い(慶応4年(1868年)1月)の後の明治天皇(大室寅之祐)は、自ら乗馬して官軍を閲兵した。また驚くほどの体格で体重は24貫(90kg)もあった。側近のものを相撲に誘い、投げ飛ばして自慢した事実もあるが、睦仁が相撲を稽古した記録は「明治天皇紀」にも「中山忠能日記」にも記してない。

 

乗馬は上手になるには年季がかかるし、事実、睦仁親王には乗馬記録もない。大室寅之祐であれば、麻郷の第二奇兵隊の練兵場で毎日のように軍事訓練で乗馬していたので、たやすいことだ。

また寅之祐は体力もあり、力士隊の隊員と相撲をとったりもしていたので相撲が得意になったのであろう。

明治天皇の相撲好きは昭和天皇も受け継いでいる。

睦仁は右利きだったが、明治天皇(大室寅之祐)は左利きだった。佐賀の乱を後に起こした、古武士のような島義男と腕相撲をしても、左手では必ず寅之祐が勝った。

 

睦仁は、書は金釘流であったが、明治天皇(大室寅之祐)は達筆であった。

睦仁は、酒を飲んだ記録はないが、「明治天皇紀」明治10年の条には、「天皇が午後4時から11時まで延々7時間にわたって酒を飲んだ」とある。

 

ここまで来ると、明治天皇(大室寅之祐)と明治天皇(睦仁)は全くの別人であることは疑いなき事実であろう。

 

近衛文麿も自殺直前に、明治天皇が南朝の子孫で、孝明天皇の子ではないことを西郷隆秀に語った、と言われている。

 

また、西園寺公望もこのことを知っていた(田中光顕談)が、11歳の時から御所に出仕し、祐宮の近習を務めていたので、祐宮(睦仁)と明治天皇(大室寅之祐)の両方を身近に観察していたわけだから、両者が別人であることは当然把握していたと思われる。

 

さらに、西園寺公望の孫の公一は「睦仁と明治天皇は別人である。二人で一人、これこそ明治維新最大の秘密だ」と言った、という。

 

 

毎年、新年を迎えると、名のある神社には参拝客が押し寄せて来るが、中でも正月三が日の初詣の人出が毎年300万人を超えて全国トップを記録しているのが、明治天皇を祀る明治神宮である。

しかし、もうひとり祀られている祭神の名前が奇妙なのである。

 

その名前は、昭憲皇太后。明治天皇の妻である。

普通、天皇皇后陛下とは言うが、天皇皇太后陛下とは言わない。従ってこの場合、「昭憲皇后」が本来の祭神名であるはずなのに、なぜか「昭憲皇太后」となっている。

「皇太后」というのは明治天皇(大室寅之祐)の先代の皇后のことであるから、暗殺された明治天皇(睦仁)の皇后のことだろうか?

  

昭憲皇太后は、公武合体派の左大臣一条氏の三女で勝子といったが、末女だったので寿栄姫と改め、慶応2年6月の18才のとき14才の睦仁と見合いし、睦仁親王の皇后として入内ののち美子(はるこ)と改名した。

明治天皇は、柳原愛子等の数人の側室との間に15人の子供をつくったが、そのうち10人は早世し、昭憲皇太后との間には子供がなかった。

 

昭憲皇太后は睦仁と結婚したのであり、大室寅之祐(明治天皇)と結婚したのではない、という自覚があって、私生活においては明治天皇を拒否していたのではないか。

 

「原敬日記」によると、大正9年、明治天皇すりかえを知る元学習院院長の山口鋭之助が、その発覚を恐れて、「明治神宮に祀るべき昭憲皇太后を昭憲皇后とせよ」と言ったところ、床次竹二郎内相が「宮内省で訂正すれば同意する」と言った。しかし中村雄次郎宮内大臣が「大正天皇が決めたことだから変えられない。綸言汗の如しだ」と言って拒絶し、自らは辞職したという。

 

大正天皇は、「一条勝子は、暗殺された睦仁親王の皇后であり、のちの明治天皇の皇后ではない」という事実を、「昭憲皇太后」という祭神名に託し、国民に対して間接的に表明しようとしたのではないか、と鹿島氏は述べている。

 

さて、孝明天皇を暗殺した岩倉具視、伊藤博文らは、自らの犯行を免責するために、明治22年(1889年)2月11日に公布した大日本帝国憲法第1条において、万世一系の天皇を謳い、第3条において、「天皇は神聖にして侵すべからず」と規定して、およそ天皇のすり替えなどという事実をありえないものとし、皇統に関する論議を一切禁止してしまった。

 

こうなれば、国民は明治天皇が孝明天皇の息子であることに疑いを持てないし、北朝を正系としなければ「万世一系」は成立しなくなるので、多くの歴史学者は権力を恐れ、北朝正系論を主張した。

 

この時代、天皇と接触するものはごく少数の側近だけだったから、その側近の口さえ封じれば天皇すり替えは可能だったのである。あとは暴力で押さえつければ良いのである。

 

孝明天皇暗殺の手引きをした、岩倉具視の義妹の堀河紀子は、証拠隠滅のために薩摩浪士に暗殺された。 

鳥羽・伏見の戦いに始まる討幕戦、東北戦や江藤新平の謀殺など、一連の驚くべき残虐性は、天皇すり替えの漏えいを止めるのにきわめて役立った。

 

また、すり替えに異議を持ちそうな中川宮の関係者は、ほとんど宮家をたててもらい、徳川家以下の有力大名も、朝敵となったものすらのちに華族として優遇された以上、生命の危険を冒してまで国民に真実を明かす必要はなかった。

 

かくして前代未聞の「沈黙同盟」が結成され、現代にまでも続いているのである。

 

しかし一方、明治天皇は既に明治10年、密かに有栖川宮に命じて、北朝のルーツに当たる貞成親王を「父不詳」とする「纂輯御系図(さんしゅうおんけいず)」なるものを作らせていた。

 

明治天皇は、「看聞御記(貞成親王日記)」と「椿葉記」によって、貞成親王の父が足利義満であることを知り、貞成親王の父を不詳として事実を秘匿しようとしたのであろう。

 

本来は 足利義満-貞成親王-後花園天皇-・・・孝明天皇 なのである。

 

貞成親王を父不詳とするなら、孝明天皇までの北朝天皇家は明らかに偽朝である。したがって南朝天皇家こそが正系であり、自分(大室寅之祐たる明治天皇)は睦仁親王(孝明天皇の子)ではない、と表明したことになる。実に、これによってこそ「万世一系」が主張できるのである。

 

明治維新は、北朝系の皇統を南朝系の皇統に変える南朝革命であったが、そのことは国民に対して秘匿され、単なる天皇の首のすり替えに終わってしまった。かつては北朝側に協力した宮廷官僚たちをすべて華族として重用したため、「半革命」ともいうべき歴史状態に終わっている。

 

最後に、孝明天皇暗殺と明治天皇すり替えの秘匿が、その後の日本の歴史に与えた影響を考えてみたい。

 

すでに大政奉還を奏上した慶喜を、どうしても討伐しよう主張したのは大久保と西郷であった。

孝明天皇暗殺とすり替えが発覚した時に備えて、暴力によって、あらかじめ全国の反対論を逼塞させるために、戊辰の戦いを開始し、徳川幕府と東北諸藩の富を奪い、大量虐殺を実行した。

戦後、西郷は「今となりては戊辰の義戦もひとえに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対し、面目なきぞ」と反省した。

 

反省するものは、反省なき者によって排除される。

反省なき岩倉や大久保にとって、「戊辰の義戦を否定するなんて許せない」というわけで、「敬天愛人」を叫んだ西郷が殺されるべき運命が決まった。

 

吉田松陰の革命テーゼが、(1)南朝の大室寅之祐を天皇にする。 (2)朝鮮と台湾を植民地にし最後にはアメリカと決戦する。 (3)被差別部落の解放。 この三つであったが、(2)と(3)は必ずしも両立しない。自由を放任すれば不平等になるのである。岩倉、伊藤、木戸、大久保等の欧米使節団は、(1)に必要であった孝明天皇暗殺を免責するために(2)を重視し、被差別部落出身者であった西郷たち留守政府は(3)を重視した。

 

(2)を重視すれば、必然的に戦時体制になり、国民の言論を弾圧でき、天皇殺しの大罪の指弾を防げるからである。

 

いわゆる西郷征韓論は、岩倉や大久保利通らのでっちあげであった。

西郷は常々「敬天愛人」を主張して無益な流血を好まなかった。徳川側と協議して無血開城をさせたのもそうである。

朝鮮と紛争が生じたとき、三条太政大臣が、使節は兵を率い、軍艦に搭乗して赴くのがよかろうと提案したが、西郷はこれに反論し、使節は武装してはならないどころか、「衣冠束帯」して、つまり礼装を整えて臨むべきだとし、かつ自分が使節の任にあたりたいと申し出ている。

 

板垣宛に送った手紙で、「使節は必ず『暴殺』されるはずですから、開戦のきっかけになります。だから私を派遣するようにして下さい。私も死ぬ覚悟は出来ます」という内容の手紙は、有力派遣候補の副島種臣外務卿を押しのけて、征韓論的色彩の濃い板垣退助に支援して貰うために工夫した説得の手紙だったのである。

 

明治6年(1873年)8月17日の閣議で西郷の朝鮮派遣が正式に決まった。19日には天皇の裁可もすんだが、(岩倉たちのパペットになっていた)明治天皇の意向で、岩倉使節の帰国後に熟慮して発表することになった。

 

9月13日、予定より1年も遅れて1年10ヶ月ぶりに岩倉大使が帰国した。

西郷は、岩倉が帰国すれば、ただちに使節派遣が実施されると思っていたのに、閣議が開かれず、朝鮮使節派遣の件が棚ざらしにされたので、三条と岩倉に抗議した。

岩倉は、西郷が征韓を欲していると誤解した。

 

これは、長州派の同僚である山形有朋や井上馨の汚職による失脚をなんとか助けたい伊藤博文が、そのためには西郷を自派に取り込む必要を判断し、さらにそのためには大久保を参議にすることが先決と計算し、そこで、岩倉に大久保説得の尻を叩かせるため、西郷が征韓を企んでいる、と偽情報を匂わせたからであった。

 

9月25日付けの木戸孝允あての伊藤の手紙には、このことを裏書きする内容が書かれている。それには、薩摩派の黒田清隆が大久保説得の役割を岩倉から引き受けたが、大久保が今一層西郷とじっくり話し合えば効果がないわけでもなかろう、また木戸と大久保が「列職」、つまりそろって参議に出仕すれば、西郷も大いに喜ぶはずだ、とあった。

 

つまり、大久保が参議になれば、(孝明天皇親子暗殺を隠蔽できる帝国主義参入を承認させるために)西郷を味方に引き寄せられると判断したのである。

そして、この意図が、岩倉・黒田・伊藤・木戸の四者共通の了解になっていたことを物語る。

 

10月14日、延ばしに延ばされていた閣議が開かれ、西郷が「使節派遣を早急に実施すべし」と求めた。これに対し、大久保は、三条・岩倉から頼まれた通りに、「使節が殺害されて開戦となれば財政上、外交上の困難が生じるので派遣を延期せよ」と発言した。

 

しかし、西郷から「交渉しに行くのであって戦争しに行くのでない」と切り返された。

また、岩倉が、日露両国民雑居の樺太で発生したトラブルを持ち出して、その解決を優先して朝鮮使節を延期してはどうか、と発言したが、江藤新平に、国家間の問題である朝鮮使節の一件とはレベルが違う、と論破された。

 

翌15日、西郷は、言うべきことは言ったので、と閣議を欠席し、代わりに、これまでの経緯をまとめた始末書を太政大臣あてに提出した。

 

そこには「護兵の儀は決して宜しからず」(派兵してはいけない)「公然と使節差し立てらるる相当の事これにあるべし」(使節派遣がよろしい)「是非交誼を厚く成され候御趣意貫徹いたし候様これありたく」(あくまで日朝親善関係の実現を貫徹したい)との素志が明記されていた。

 

板垣宛の書簡と、この始末書を比較すれば、この始末書こそ西郷の真意であり、征韓論とは180度正反対の立場であったことがわかる。

 

結局、15日の閣議では、西郷を朝鮮派遣使節に任命する8月閣議決定を再確認する旨、三条・岩倉両大臣が裁定し、大久保を含めて満場一致で了承された。

 

ところが、ここで暗躍したのが伊藤博文であった。

彼は大久保に謀略を献策した。即ち、三条太政大臣の急病を幸いに、岩倉を太政大臣代理につけ、閣議決定を天皇に上奏する際に、岩倉の独自意見を併せて発言させ、天皇を閣議決定不裁可の方向に誘導する、というものであった。

 

大久保は開拓次官黒田清隆に宮廷工作をやらせ、岩倉を太政大臣代理につけることに成功した。「大久保日記」に「他に挽回の策無しといえども、ただ一の秘策あり」と書かれている。

 

22日、陰謀の罠があるとも知らず、西郷、板垣、江藤、副島の四参議は太政大臣代理に就任した岩倉の邸を訪問し、「太政官職制」「正院事務章程」の規定通りに、閣議決定事項を天皇へ速やかに上奏するよう促した。8日間も未上奏のまま放置されていたからだ。

 

ところが、大久保からネジを巻かれていた岩倉は、「三条と自分は別人だから、自分のしたいようにさせてもらう、閣議決定に併せて、使節延期という自分独自の見解も上奏するつもりだ」と答えた。

 

岩倉自身が三条とともに、当の閣議の結論をとりまとめたにもかかわらず、その閣議決定に拘束されない、と言い放ったので、あまりの没論理に4人は唖然とした。

 

大久保に操られた岩倉の、この脱法行為敢行宣言は、日朝友好、東アジア和平の芽を摘み、参議等、政府関係者約600人が職を辞する大混乱を引き起こし、さらには士族反乱の原因ともなるのであった。

 

翌23日、岩倉の不法な意図に怒った西郷は、天皇の裁定が出る前に抗議の辞表を出し、東京郊外に身を隠した。

その後、同じ23日に、岩倉に言われるまま明治天皇は、西郷の使節派遣の閣議決定を裁可しなかった。

 

閣議が議決した案件を、天皇が裁可しないことは、天皇の正院不信任を意味する。裁可の内容が判明した24日、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の四参議は辞表を提出して政府を去った。

これが、いわゆる「明治六年政変」であり、政府は大分裂した。(以上、毛利敏彦著「明治六年政変」中公新書より抜粋)

 

端的に言うと、朝鮮侵略のための徴兵制によって国民を意のままに動かし、孝明天皇親子暗殺を隠蔽したい伊藤、岩倉、大久保らのグループが、日朝友好を結び、孝明天皇親子暗殺と明治天皇すり替えをオープンにして南朝革命の事実を宣言したい西郷らのグループを、違法行為によって政府から追い出したわけである。

 

岩倉、大久保、木戸、伊藤といった欧米使節団の連中は、イギリスに行って膨大な国費によって美酒に酔いしれながら、イギリスがインドを植民地化したように、国民皆兵による朝鮮併合という帝国主義の手先になることにより、戦時体制の言論統制の絶えざる緊張で、孝明天皇親子暗殺の事実をも国民から隠し通せると判断していたからだった。

 

江藤新平が政府を去ったため、山城屋和助事件、三谷三九郎事件、尾去沢銅山事件、小野組転籍事件等、汚職・不祥事件を続発させた長州汚職閥は、江藤と司法省からの追求を逃れることに成功し、片や「法治主義と人権の父」である江藤新平は、佐賀の乱に巻き込まれて大久保利通の罠にはまり、斬罪梟首の極刑となった。まさに「悪徳の栄え」であった。

  

西郷隆盛も、政府に挑発された鹿児島士族の反乱に巻き込まれ、明治10年(1877年)9月24日、激戦半年の西南戦争で51歳の「敬天愛人」の生涯を終えた。 

 

西郷を殺して、悪魔的な帝国主義を政治の根幹に据えた大逆犯人たちの政権は、徴兵制によって無数の日本人を戦死者とし、不法なる侵略戦争により多数のアジア人を虐殺し、奴隷として差別した。

 

しかし西郷が生きておれば別の選択、「敬天愛人」の政治、すなわち「南朝革命の大義宣言と列強の帝国主義的侵略に対抗するアジア諸国の団結」という大アジア的な国策を行うことも可能だった。これこそ、アジアにおける日本に課せられた重要な歴史的使命であった。

 

岩倉、大久保、木戸、伊藤といった欧米使節団の連中に従って、二枚舌を使って西郷を追放した明治天皇(大室寅之祐)の罪は重い。

 

天皇神聖、万世一系の憲法のもとで、天皇が伊藤を絶対的に支持する以上、天皇を神聖にすれば伊藤も神聖になる。伊藤にとって便利この上ない憲法であった。

 

明治時代の殆どにわたって木戸、伊藤は天皇を振り付け、泥人形を操る人形師のように天皇を操作した。

明治憲法は、この泥人形を神聖化することにより、結果として人形師をも神聖化したが、人形師がいなくなれば人形は踊れなくなる。

 

伊藤はドイツ人の医者ヘボンに「皇太子は振り付け役の決めた通りに動く人形のようなものだ」と言ったが、これは明治天皇に向けて言った言葉でもあった。

 

明治44年3月3日、明治天皇は、南朝正統を唱え、自分の出自を明らかにしようとしたが、このとき側近の宮廷派は誰ひとりとして天皇の行動を助けなかった。彼らが求めたのは彼らを権威づけるべき天皇制であって、天皇はその為の手段に過ぎなかったのである。

 

 

伊藤博文の最期

 

明治42年(1909年)10月26日午前9時過ぎ、ハルビン駅ホームでロシア兵の閲兵の最中だった伊藤は、3発の銃弾を撃ち込まれ暗殺された。

 

暗殺したのは、現場に居て伊藤に発砲した朝鮮の壮士、安重根とされ処刑もされたのであるが、実は安重根の発砲した銃弾は一発も伊藤に当たっていなかった。安重根が発砲した銃は7連式のブローニング拳銃であったが、伊藤の体内に残っていた銃弾はカービン銃から発射された銃弾だった。

  

さらに伊藤に随行していた貴族院の議員室田義文の供述によると、安重根は、兵列から発見されないよう、しゃがんで、前に立つロシア兵の兵列の股の間から伊藤に向かって発砲した、というが、伊藤の被弾状況は右肩から斜め下に向かって弾痕が入っていた。下から斜め上方向に向かって撃った安重根とは全く逆である。

 

そして当時の伊藤の右肩の斜め上方向には、駅の2階の食堂があり、そこに居たロシア兵がカービン銃で狙撃したのではないか、というものである。

 

安重根は1発だけ残して、6発を発砲し、室田氏が5発被弾し、中村満鉄総裁は衣服に2カ所の貫通弾痕がある。川上総領事は右腕を銃弾が貫通し、胸部に擦過傷があり、森秘書官は左腕を銃弾が貫通。田中満鉄理事は左の足首を銃弾が貫通 していた。そして伊藤も3発被弾したことを考慮すると、安重根の6発だけでは計算が合わない。

  

やはり、安重根以外に狙撃手がいたと考えるべきだろう。

ロシア兵が暗殺したのであれば、その理由は何か?伊藤は日露協商を推進していたが、対露牽制の日英同盟が結ばれた為、伊藤がロシアを裏切ったと見なされたのであろうか。

伊藤が暗殺されたハルビン駅構内はロシアの支配下にあったので、ロシア兵が暗殺準備をすることは容易であろう。実際、被弾したのは全て日本人関係者だけであり、ロシア兵やロシア人関係者は一人も被弾していない。

 

では、安重根が伊藤を暗殺しようとした理由は何であったのか。実は極めて重大な証言があったのである。

  

安重根は、その「斬奸状」の中で、伊藤博文の罪を15ヶ条あげ、まずはじめに

「一、1867年、明治天皇陛下父親太皇帝陛下(孝明天皇)し殺大逆道之事」

と述べ、さらに旅順法務院法廷にて

「日本は東洋の撹乱者なり、伊藤公は前年閔妃を殺害したる首謀者なり。また公爵は韓国の外臣なるにかかわらず、わが皇室を欺き先帝を廃位したり。故に伊藤公は韓国に対し逆賊なると共に、日本皇帝に対しても大逆賊なり。彼は先帝孝明天皇(を謀殺して)・・・」

 

そこで、裁判長はあわてて安重根の発言を差止め、裁判の公開を禁止した。

 

朝鮮半島にまで、伊藤博文が孝明天皇を暗殺したことが伝わっていたわけだが、安重根に伊藤の暗殺を教唆した日本人が情報を漏らした可能性も小さくはない。

当時、政界の黒幕であった杉山茂丸は、伊藤のことを「悪政の根源」として暗殺を企てたこともあるので、彼が暗殺のシナリオを作ったのかも知れない。

 

暗殺者は暗殺される。

孝明天皇を暗殺し、総理大臣にまで上りつめ、長州から連れてきた大室寅之祐を明治天皇に仕立てパペットの如く動かした希代の殺し屋、伊藤博文も、その人生の最期を暗殺というかたちで終えたのであった。

 

孝明天皇親子暗殺の他の共犯者のうち、

木戸孝允は、明治10年(1877年)5月26日、原因不明の脳病で死亡。享年45歳。

大久保利通は、明治11年(1878年)5月14日、紀尾井坂で石川県士族、島田一郎らに暗殺された。享年49歳。

 岩倉具視は、明治16年(1883年)7月20日、咽頭癌で死亡。享年59歳。

 そして、明治天皇になった大室寅之祐は、明治45年(1912年)7月29日22時43分、糖尿病から尿毒症を併発し生涯を閉じた。享年61歳。

 

   (完)

 

(参考図書) (鹿島昇著)裏切られた三人の天皇(新国民社)  (鹿島昇・宮崎鉄雄・松重正 共著)明治維新の生贄(新国民社)  (毛利敏彦著)明治六年政変(中公新書)